『クリムゾンの迷宮』
高校くらいで読んで、面白いと思った本。
その後デスゲーム系の漫画をいくつも読んだけれど、この本が一番最初だと思う。漫画はいくつもあるのに似た小説を知らない。
スナッフビデオというものを知ったのもこの本でだったと思う。ペルソナという言葉も、多分そう。貴志祐介を知ったのもこの本。本を読むということは二度読むことだ。懐かしい。なんでもないような、いくつあるか見当もつかない語彙のいくつかをこの本で得たと、読んだら思い出せる本だった。
裁判の傍聴
被告人はいかにも悪人面だったり、いかにも不良っぽい服装だったりした。
地裁の裁判官は思いやりをもって発言しているように、高裁の裁判官は職業的な冷たさで阻まれているように見えた。検察が一方的にしゃべって、弁護側は「異論ありません」と淡々と進んだり、逆に弁護側がしゃべって検察が「必要ないと思料いたします」と一蹴したりしていた。言い合いはないし、被告人の発言も氏名や住所の確認程度だった。
手錠と腰縄が一番印象的だった。執行猶予があるかないかはとても大きな違い。
裁判の傍聴に行くこと自体、人の不幸を娯楽にしているようで、自分のいやなところと人のいやなところを見に行く気持ち。被告人はもう、罪人に見えた。そのように扱われていたと思う。判決を言い渡された瞬間に罪人になる?(今日の裁判の被告人たちはほとんどみんな前科持ちだったので、罪人?刑期を終えての再逮捕だから、やっぱりまだ被告人?きっと「罪人」というのは正しい呼び方ではない)
この国に生まれた時点で、してはいけないことを強制されて、それをしたらあの場所に連れていかれると強制されているのだけれど、それを恐怖するほどひどい場所ではなかった。でもあそこに立たされた人たちはどんな気持ちだろう。
高校中退以降レストランなどの職を転々とし、と国家試験に通った検察官に読み上げられて、高学歴高所得の人たちに囲まれて、もう殆ど自分の裁判に関心がないように見えた。抗えないと思っているのか、諦め?退屈な講義を聴いているみたいだった。
『宇宙人ポール』
何度も観てる。毒にも薬にもならないような物語が救いになる。
ポールみたいに振舞えたらもっといろんな人と友達になれるかな。
『コンビニ人間』
思い当たるところがある。
2社目の職場で仕事に慣れて、初めて自分の思う「当たり前」が組織の「当たり前」と一致する感覚があり、その「当たり前」を体得できない人たちを冷たくあしらう経験をしたことを思い出した。学生時代ずっと周囲の「当たり前」がわからなくておびえていたし憤慨していたし、「多数派はいつも傲慢だ」と思っていたのに、それを思い出しながらも当たり前にできることをできない人に苛立ってしまう。今だっておびえているのに。